Director's BOYAKing
10. 20世紀が終わる (2000.12.30)
若い人たちにはこういう感覚はないんじゃないかな、と思うけど、
半世紀近い以前に生まれた者にとっては、
21世紀なんて手の届かない遠い未来のように思いながら
少年期を過ごしたものなんですよ。
21世紀まで生きてたらスゲェな、てな感じで。。。
でも、21世紀まであと47時間になった今、ここに何か書こうとしています。
やっぱり不思議なんですねぇ、今ここにこうして生きているということが。。。
この自分は自分の両親からしか生まれようがなかったわけだから、
生きるとすれば、「今」「ここ」に生きるしかなかったのだろうけど、
でも、こういう問題は考えれば考えるほど不思議な思いに包まれます。
そして、20世紀の後半を生活してきた者としては、
なかなかいい時代を生きてきたんじゃないかな、と思っています。
テレビや電話がまだ珍しかった時代から今まで生活してきたのです。
まだ不便で、物質的にも貧しく、経済的にもじり貧だった時代から、
それが急速に発展し、便利で物質的には豊かな時代になり、
まだまだ発展しそうな勢いですが、少し視点を変えれば、
便利さと物の豊かさはもうこの時点で飽和状態と見てもよく、
その代償としての心の貧しさの方が取り沙汰される時代になっています。
なかなかいい時代を生きてきたんじゃないかな、という思いを 音楽という面だけで振り返ると、次のようになります。
幼少期から青年期まで、歌謡曲・GS・フォークソングなど、巷に流れていた音楽が、
きわめて基本的なメロディーと和声と情感を持っていたこと。
最近も確かにいい曲が時々あるけれど、
概して、ひねりすぎ、いびつな音楽が氾濫していますね。
既成のパターンが飽和状態なので、新しい曲を作る人は大変でしょうけど。
その青年期にクラッシックを聴きまくっていたわけですが、
月1枚程度しかレコードが買えなかったので、同じ曲を何度もしつこく聴いたこと。
これは、貧しく不自由なために、かえって自分のためになったと思います。
読書についても同じで、新しい本が買えるまで繰り返し読んだものでした。
オペラでも、テレビで1度見て(ビデオなんて想像もしてなかった時代です)、
ラジオからテープに録音したのを何十回も聴いて舞台を思い描く、
そのうちに、自分なりの演出が頭の中にできあがる、なんて具合でした。
楽器を弾きたくてもできない、聴きたい曲も聴けるとは限らない、
そういう点では不自由で、欲求不満も多く、運命を呪ったはずですが、
ハングリー精神は、許される最低限の環境で最大限音楽を楽しもうとする
情熱の源でもあったと思います。
最近は自分の周りに物がありすぎて、ダメです。堕落しました。
名演奏家の出現と、録音技術の発展期でもあったこと。
フルトヴェングラーとかトスカニーニとか、往年の名指揮者がちやほやされても、
僕はあまりこういう人たちの演奏の録音を聴きません。
聴いても、少なくともあの録音からは、演奏の良さがめったに感じられないからです。
けれども、カール・ベームとかブルーノ・ワルターとか、究極の名指揮者カラヤンな
ど、今の録音技術から較べたら粗悪でも、何とかいい録音になりかけてからの演奏が聴け
たので、いい時代から自分の音楽生活が始まったな、と思います。
クラッシック界にもまだまだいい演奏家が出ているし、演奏技術も上がっています。
オーケストラの演奏も、精緻で透明感のある演奏が聴けるようになりました。
でも、反面、情感の乏しい演奏なのに、名演奏と讃えられる傾向も強いように思われ
て、残念に思っています。技術偏重の傾向というべきかな?
個人的には、歌心たっぷりのブルーノ・ワルターと、徹底した音作りと演出力のカラ
ヤンをミックスさせたような音楽が理想なんですけどね。。。
日本の吹奏楽が急速に発展したのも、この20年ほどの間じゃないでしょうか。
今はもう頭打ち状態で、ここまでの発展をどう維持していくかという段階に入ってい
ます。
その発展途上のさなかに、それまで吹奏楽などとはまったく無縁だったのに、
たまたま吹奏楽と関わるようになって、やがて前に立つことが多くなって、
自分の音楽生活も新たな発展をしてしまいました。
若いころ躍起になって音楽を聴いていたのが、
また、細かいところにこだわって聴いていたのが、かなり役に立っているな、と思います。
パソコンで編曲ができるようになったのも、いい時代の代表ですが、
これはもう数年早いとよかったなぁ、とちょっと残念なところです。
手書き時代の編曲の方がうんと多くて、せっかくパソコンでできるようになったのに、
それほど活用できていないのです
。
でも、吹奏楽とは関係なく、趣味でミディファイルを作って遊ぶ楽しみもできました。
どの楽器もろくろく弾けない者にとっては、本当にありがたい便利な時代になったものです。
こんな風に、20世紀の半世紀近くを生活した者にとっては、
20世紀の歴史が非常に意味あるものに思われるので、
新しい世紀に変わるというのも(内心、形式上のことに過ぎないと思いつつも)
格別の感慨を抱いてしまうのです。
年賀状にも、「謹賀新年」だけでなく「謹賀新世紀」とつけ加えなきゃならなかった
ほどに。。。